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《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 4月11日

2021.04.11

本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。

プロレスあの日あの時 4月11日

1984年=UWF
総合格闘技の源流
第1次UWF、嵐の旗揚げ
****一部記事抜粋
90年代に入るまで、格闘技はどちらかというと見るためのものではなく、やる側のものだった。プロ興行として成り立つのはボクシング、キックボクシング、相撲といった限られたジャンルで、多くはアマチュアとしての競技性の中に価値を見いだした。
 
そうした格闘技と、プロレスとの距離を急速に近づけたのがUWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)だった。1981年に国際プロレスが活動を休止して以来、日本のプロレスは新日本と全日本の2団体時代が続いた(女子を除く)。そうした中、アントニオ猪木がブラジルにて起こした事業「アントンハイセル」で莫大な負債を抱えたため、クーデター派が動いて社長を解任される。
 
そこで営業本部長としてらつ腕を振るいながら、同じく解任された新間寿氏が猪木の受け皿として新団体設立を画策。新日本を中継しているテレビ朝日とは別にフジテレビと契約、放送する団体としてUWFは設立された。
 
当時のプロレス界では、老舗の2団体以外に団体を作るという発想自体がなかった。今のように「ここがうまくいかなければまた旗揚げして新たにやればいい」などという時代ではない。
 
新間氏がそのように発想できたのは、東京プロレスが業界人としての入り口だったところが大きいと思われる。日本プロレスによる独占企業状態の中、豊登が猪木を引き抜いて始めた団体に携わった新間氏だけに、既存の会社でやれなければ自分たちで新たなリングを持つという選択肢が浮かぶのは自然なものだった。
 
猪木も新間氏の構想に同意し「俺もあとから合流する。先にいってくれ」と前田日明を先兵隊に指名。事務所も構えプロレス団体として動き出したが、新日本に対しテレビ朝日が「猪木抜きで続けられるのか。猪木が新日本をやめたら放送を打ち切る」とクーデター派に通達。これにより猪木は社長へ復帰する。
 
新日本に戻ったとなると、新団体は宙に浮いてしまう。それでも船は港を出てしまっている。「猪木さんはテレビ朝日ともうひとつ(フジテレビ)との同時放映を狙っていた。新日本はテレ朝との契約があるけど、別団体を作って別契約でやればいいじゃないかって。それがどういういきさつなのかわかんないけど、来られなくなって。表向きは俺が新日本の裏切り者」(前田)
 
海のものとも山のものともわからぬ団体へいかされた前田は、親から置き去りにされた子どものように途方に暮れた。猪木が来ないことでフジテレビも話が違うとなり、中継の話はとん挫。人づてに猪木から「戻って来い」と言われるも「フロントの人間は俺が(UWFに)にいくっていうから新日本をやめてきた。俺は戻れてもそいつらは戻れない」と拒否し、4月11日より始まる「UWFオープニング・シリーズ」へと臨んだ。
 
この旗揚げシリーズがまた物議を醸した。そこにはプロレスラーよりも大きく中央にドーン!と新間氏の姿があり「私は既に数十人のレスラーを確保した」のコピーが躍った。「日本人候補レスラー」として猪木、前田に加えタイガーマスク、マサ斎藤、藤原喜明、長州力、アニマル浜口、ラッシャー木村、剛竜馬、高田伸彦(現・髙田延彦)が、さらに「外人候補レスラー」はハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランド、ローラン・ボック、ディック・マードック、アドリアン・アドニス、ポール・オーンドーフ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カーン、タイガー戸口の写真が並べられ、日本人と外国人枠それぞれに大きく「?」の文字が被せられていた。
 
新日本と、新間氏と太いつながりがあるWWFの大物たちがごっそり出場する…と思わせつつ、あくまでも“候補”とうたってある。今なら炎上必至だが、当時は「そんな大物が出るわけがないだろ」と言いつつ、出ないならばどうなるのかという事件マニア的な見方で関心が高まった。
 
じっさいポスターに載っている中で旗揚げシリーズへ参戦したのは前田、木村、剛と、高田が新日本から“出向”。新間氏と懇意のWWFも契約により新日本からストップをかけられ選手は派遣できず、メキシコの団体UWA(ユニバーサル・レスリング・アソシエーション)に協力を仰ぎその線でグラン浜田と、マッハ隼人が加わった。
 
外国人ルートは新間氏がジャイアント馬場に頼り、その命を受けたテリー・ファンクのブッキングでダッチ・マンテル、ボブ・スィータン、スコット・ケーシー、ビニー・バレンチノが来日。UWAからもエル・テハノ、エル・シグノ、マノ・ネグラがやってきた。
 
マンテルは全日本、スィータンは国際に来日経験があったもののエース格の選手ではなくウリとなる外国人はいなかった。それでもプロレス団体の旗揚げ戦がレアだった時代、3100人(満員)の観衆で大宮スケートセンターは埋め尽くされた。
 
ただ、そこに新たなる可能性を見いだした上で足を運んだ観客はほとんどいなかった。新日本のエース候補だった25歳の前田が独立したから応援しようという層は少数派。その証拠に、メインイベントの前田vsマンテル戦では試合中に「猪木」「長州」「藤波」コールが浴びせられた。
 
やるせない気持ちを抱えながら、前田はフライング・ニールキックからジャーマン・スープレックス・ホールドにつなぎ8分台で勝利。その感情をマイクにぶつけたものの、野次によってかき消された。

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