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《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 11月24日

2020.11.24

日本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。

~プロレスあの日あの時~11月24日の今日は
2002年=PRIDE
7年越しの「真剣勝負」と万感の思い
髙田延彦が田村潔司の介錯で引退


****一部記事抜粋

今では別ジャンルとしてそれぞれ確立しているプロレスと格闘技の両方に、深くかかわったパイオニア的存在は髙田延彦である。1980年に新日本プロレスへ入門し、1982年よりアントニオ猪木の付き人を務め“青春のエスペランサ”として将来を嘱望されるも、1984年に設立された第1次UWFへ移籍。活動休止後は新日本へ戻りIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。1988年に第2次(新生)UWFが再旗揚げされると前田日明、山崎一夫とともに主力の一角をなした。
 
新日本時代に異種格闘技戦をおこなっていた猪木を至近距離から目撃し、UWFではキックとスープレックス(投げ技)とサブミッション(関節技)を主体とする格闘技色の強いスタイルで先鋭的な闘いを繰り広げた。1991年にUWFが三派に分裂すると、UWFインターナショナルを設立し「プロレスこそ最強」を掲げ、その大黒柱として活躍。中でも1992年10月23日、日本武道館にて元横綱・北尾光司を右ハイキック一発で沈めた一戦は今でも語り草となっており、その年のプロレス大賞MVPにも選ばれた。
 
1993年9月にアメリカでUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)がスタートし“なんでもあり”の総合格闘技イベントの時代が到来。そこでホイス・グレイシーが名をあげ、柔術がクローズアップされるようになる。最強をうたうUインターは打倒・グレイシー柔術を掲げ、1994年12月に安生洋二がロサンゼルスのヒクソン・グレイシー(ホイスの兄)の道場に赴いたが、返り討ちとされる。
 
道場破りに失敗したことで、髙田は好むと好まざるとヒクソン戦に臨まざるを得なくなる。UFCが誕生した時点で「自分に限らず、プロレス界が避けては通れない。その中にどっぷりいるからにはどこかで接点があるんだろうな」と思ったという。
 
髙田vsヒクソン戦を実現させるために起ち上げられたのがPRIDEだった。その後、立ち技のK-1と並び格闘技イベントの歴史を築いていくことになるが、スタートの時点でその中心に据えられた髙田は「自然の流れで」プロレスから遠く離れたところにたどり着いた。
 
新日本-UWF-格闘技とつながるラインを歩んできた髙田は、2度に渡るヒクソン戦(1997年10月11日=PRIDE.1、1998年10月11日=PRIDE.4)で完敗を喫するも、総合格闘技の試合を続け、ホイスやミルコ・クロコップとも対戦、PRIDEの礎を築いていく。そして2002年に引退を表明。11月24日、東京ドームにおけるPRIDE.23の相手として指名したのは、第2次UWF-Uインター時代の後輩である田村潔司だった。
 
田村は新生Uの第1回入門テストへ合格し、1989年にデビュー。その後、Uインターで頭角を現し、次々と先輩たちを撃破していった。だが、1985年に団体が新日本との対抗戦に出るとなった時、それに背を向ける。UWFスタイルにこだわりを持つがゆえ、従来のプロレスと交わることに対しNOを貫くためだった。
 
その年の6月に髙田が突じょ「近い将来、引退します」と宣言し…
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