ニュース

《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 12月31日

2020.12.31

日本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。
 
~プロレスあの日あの時~ 12月31日の今日は
1989年=新日本プロレス
大晦日興行が定着していない時代
猪木がロシア初のプロレス開催



****一部記事抜粋
コロナ禍の中で開催が危ぶまれていたが、今年も後楽園ホールにて年越しプロレスがおこなわれる。2000年代からは総合格闘技イベントも12月31日の開催が恒例化し、大晦日夜のテレビ戦争におけるキラーコンテンツとなった。
 
年の最後をプロレスで締めくくれるのはファンとしては喜ばしいことだが、新日本&全日本の2団体時代は12月のシリーズが終了すると業界的にも年の終わりを意味していた。古くは日本プロレスが1965年と1971年に大晦日興行を開催した史実が残っており、それから21年後となる1992年に、インディー団体のW★INGプロモーションが京都大学西部講堂のイベント「INDEPENDENT WAR 92-93」に参加する形で、平成最初の年越しプロレスが実現。
 
その後は2006年に「カウントダウンプロレス」が後楽園ホールでおこなわれ、以後は大日本プロレス、DDT、KAIENTAI DOJOが中心となりプロレスサミット→天下三分の計スペシャル→年越しプロレスとテーマを変えながら現在まで続いている。
 
だが、国内ではなく海外興行も入れるとW★INGより3年早く実現させたのがアントニオ猪木。それが1989年12月31日、ソビエト連邦モスクワ・レーニン運動公園内ルイージニキ室内競技場大会だ。
 
1989年の新日本は共産主義国家であるソ連レスリング選手たちのプロスポーツ参戦が話題となった。1986年に指導者となったミハイル・ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革の意)政策を掲げ、プロ制度がなかったスポーツにおいて競技者たちがプロに転身。北のカーテンを開いて西側諸国に進出し、外貨を稼ぐようになる。
 
この動きに関心を持った猪木は政財界の人脈を使いソ連と接触。自らもモスクワに飛び国家スポーツ委員会と接触し国内にまったくなかった文化である「プロレス」について熱弁を振るい、理解を求めた。国を相手に交渉するのだから、とてつもないスケールである。
 
猪木の熱意が伝わり、何よりもソ連側がプロレスに大いなる興味を抱いた。同国がペレストロイカ政策を推進したのは、国内経済の立て直しが目的だった。国家レベルの提携となると当然、契約金やファイトマネーが莫大なものとなる。そのためには日本武道館や両国国技館クラスでも採算が取れない。今も続く新日本の東京ドーム大会は、そうした事情から始まった。
 
後楽園球場から生まれ変わり、前年1988年にオープンした東京ドームにおける格闘技関連の興行は、マイク・タイソンのプロボクシングタイトルマッチしかまだおこなわれていなかった。2月11日、テレビ朝日内スタジオにて日ソ・プロレス協定調印式がおこなわれ、東京ドームは日米ソの三軍対抗戦とされた。2・22両国国技館(1987年12月27日の暴動騒ぎから続いた貸し出し禁止が解禁)ではサルマン・ハシミコフ、ビクトル・ザンギエフ、ウラジミル・ベルコビッチがリングへ上がりエキシビションでレスリング仕込みのスープレックスを披露する。
****
有料会員様、続きはこちらから⇒
https://nippon-puroresu-hof.com/dendokinenkan?no=BuFDsN65sCvi3wSg3rctS
有料会員のみなさまがご覧いただけます。
※様々なコンテンツがサポーターご支援の特典としてご覧いただけます※
このサポートの数々がプロレスラーの支援に繋がります。
引き続きどうぞ宜しくお願い申し上げます。
https://nippon-puroresu-hof.com/join