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《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 10月9日

2020.10.09

日本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。

~プロレスあの日あの時~ 10月9日の今日は
新日本プロレス=1995年
 
空前絶後の団体対抗戦
長州、ついにUを撃つ

 
 ****一部記事抜粋
「いくら俺が狙いを定めてUを撃っても、タマが届かないんだ」
 
長州力のこの発言は、1990年11月に出たものだ。一度は活動休止となりながら、1988年に再旗揚げし爆発的人気となったUWFは「ウチは従来のプロレスと違う格闘技」という方向性を打ち出していた。
 
自分たちと同じプロレスの枠内にいながらその外にいるというスタンスは、長州にとって看過できぬものだった。ましてや、ストロングスタイルを標ぼうしていた新日本は一番の比較対象として、さまざまな形の“実害”を被った。長州からすれば、Uの価値は形骸化するべきものでしかなかった。
 
この1995年という年は、3つの数万人規模の大会が開催されている。まず4月2日に『週刊プロレス』を発行するベースボール・マガジン社が「夢の懸け橋」を開催。13団体が参加し6万人の観衆を集めた。同じく4月、アントニオ猪木が北朝鮮で「平和の祭典」とおこない、2日間でのべ38万人を動員。
 
これだけでも例年に比べて大きなトピックといえたが、それを上回るインパクトを生み出し、歴史的にも最大級の重要な大会となったのが10・9東京ドーム「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」だった。この大会は当日の試合もさることながら、実現にいたるまでを含めてが最高傑作といえた。
 
上記のように長州のタマが届かぬ位置にいたUインター。1992年にその夏のG1クライマックスを制したあと、蝶野正洋が「俺は多団体と交流戦をやるんだったら髙田(延彦)さんとやってみたい。髙田さんがベルトを持っているんだったら、俺としたら統一戦をやったっていいと思います」と発言する。
 
この年のG1(第2回)はNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントして開催されており、蝶野は由緒正しき“フレアーモデル”のベルトを獲得。髙田も“鉄人”ルー・テーズが同王座のチャンピオン時代に巻いていたベルトを復活させたプロレスリング世界ヘビー級王座を獲得したばかりだった。
 
この言葉を受けて、Uインターはさっそく行動に出る。会見で蝶野との対戦を要求すると、その足で新日本の事務所へと向かい、抜き打ちで対戦要望書を渡しにいった。11月6日、両団体による話し合いがおこなわれ新日本側から「髙田を含む3対3の試合を巌流島でやる。その試合でUインターが勝てば蝶野とやらせる。その代わりリスク料として3000万円を出すこと」という条件を提示された。
 
新日本の3人に蝶野は入っておらず、あたかも挑戦権を得るための試合とあってはUインターしても首をタテには振れない。蝶野の方が発言したのだからこちらは受けてもいいという姿勢だったのに、下に見られては飲めなかった。
 
結局、その場では結論が出なかったがUインターは「この条件は報道陣へ公開しないように」と通達されながら「Uインターは返事ができなかった。尻尾を巻いて逃げた」と新日本側から発表されたため、反論するべく3日後にその内容を明かした。当然、新日本は約束が守れないと激怒。発展的なものは何も残せず、お互いにネガティブな感情を残すだけに終わってしまった。
 
さらに1994年、Uインターが「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を発表し、優勝賞金1億円を用意した上で新日本の橋本真也、全日本の三沢光晴、WARの天龍源一郎、リングスの前田日明、パンクラスの船木誠勝に招待状を送付し参加を呼びかける。この時の長州の怒りもすさまじいもので「てめえらに金儲けさすことはやらない。みんな首吊って死ね。あの野郎(宮戸優光=Uインターのスポークスマン)くたばって墓建ったらクソぶっかけてやる」とまで言い放った。
 
こうした経緯から、UWF系の中でもUインターがもっとも長州と険悪な関係にあった。その尻尾をついにつかまえるチャンスが、1995年に訪れる。
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