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《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 5月14日

2021.05.14

日本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。

プロレスあの日あの時
5月14日
 
1990年=全日本プロレス
さらば虎の覆面…
三沢がマスクを脱ぎ素顔に

****一部記事抜粋
1981年8月21日、全日本プロレス入門から5ヵ月でデビューし将来を嘱望された三沢光晴は、1983年春に先輩の越中詩郎とメキシコへ海外修行に出た。だが、その数ヵ月後にジャイアント馬場から国際電話がかかってきて「コーナーポストに飛び乗れるか?」と問われる。できると答えると、帰国命令が下された。
 
そして日本へ戻るや2代目タイガーマスクになるよう命じられる。タイガーマスクといえば1981年4月23日から1983年8月まで新日本プロレスで活躍したスーパーヒーロー。約1年後の7月23日、第1次UWFにてその正体である佐山聡はザ・タイガーのリングネームで復帰(のちにスーパー・タイガーへ)したが、8日後の7・31蔵前国技館に黄金の虎の覆面を被った2代目が登場。全日本へ参戦することが明らかとされた。
 
2代目タイガーは8・26田園コロシアムでラ・フィエラを相手にデビュー。みんなの中にあるタイガーマスクのイメージを忠実に体現し、ノータッチ・トペやタイガー・スープレックス・ホールドを繰り出し初陣を飾る。
 
初代のライバルだった小林邦昭がジャパンプロレスとして参戦しており、NWAインターナショナルジュニアヘビー級(現・世界ジュニアヘビー級)のベルトを懸けてのライバル抗争を繰り広げるなどジュニア戦士として活躍したが1986年3月、ヘビー級転向のため返上。あまりクローズアップされていないが1988年1月2日にカート・ヘニングのAWA世界ヘビー級、1989年3月8日にはリッキー・スティムボートのNWA世界ヘビー級王座に挑戦しており、かつての全米3大タイトルのうち2つへの挑戦を経験した。
 
だがヘビー級転向後もタイガーマスクのスタイルを求められた結果、飛び技によるヒザへの負担から手術→長期欠場を余儀なくされる。1988年5月の結婚を機に正体は三沢光晴であることを明かした上で、虎の覆面を被り続けた。
 
1986年3・13日本武道館におけるジャパン軍との6対6シングル対決では長州力との一騎打ちで玉砕。同年7月から1988年3月までおこなわれた猛虎七番勝負は3勝4敗と負け越しに終わるなど、ヘビー級転向後のタイガーはなかなか実績を上げることができず、理想のプロレスとのギャップに苦しむ顔をマスクの下へ隠していた。1990年2・10新日本の東京ドームでは天龍源一郎のパートナーに直前で抜てきされ、長州&ジョージ高野と対戦したあと4・13日米レスリングサミット(東京ドーム)ではWWF世界ヘビー級王者になる前のブレット・ハートと20分フルタイム戦を闘うも大きなインパクトは残せず。
 
そして4月26日、ジャンボ鶴田のライバルとして全日本をけん引してきた天龍の退団が明らかとなる。移籍先となったSWSの設立発表会見から4日後の5月14日、全日本は東京体育館大会を控えていた。
 
鶴田vs天龍戦で日本武道館を超満員にしていた全日本が、リニューアルされた同会場のこけら落としとして開催する大会。昭和の時代は数々の名勝負が刻まれた体育館も近代的な造りに生まれ変わり、ビッグマッチ用のアリーナとして定着すれば…と目されていたが、当日の東京地方は強い雨に見舞われ気温は17.5℃と寒々しく、客足が鈍った。
 
もっとも、それ以上に天龍という存在が抜けたのはあまりに大きかった。
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