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《更新情報》~プロレスあの日あの時~ 5月11日

2021.07.17

日本プロレス殿堂会、皆様いつもありがとうございます!
 
鈴木健.txt氏によるプロレスあの日あの時
殿堂記念館|プロレスあの日あの時が更新されました。

プロレスあの日あの時
7月17日
  
2006年=新日本プロレス
棚橋弘至がIWGP初奪取
涙の「愛してます!」
****一部記事抜粋
髙山善廣が脳梗塞から奇跡の復活を果たした翌日、新日本プロレスは北海道・月寒グリーンドームでビッグマッチを開催。当初はIWGPヘビー級王者、ブロック・レスナーに棚橋弘至が挑戦するタイトル戦が組まれていた。
 
棚橋が団体最高峰のベルトへ挑戦するのはこれが3度目。ライバルと目されていた中邑真輔の方が先にIWGPヘビー級王座へ就いている(2003年12月9日、大阪府立体育会館。デビュー1年4ヵ月の戴冠は史上最短)。元WWE王者のレスナーは2003年に退団後、2005年10・8東京ドームより新日本へ登場。いきなり藤田和之、蝶野正洋との3WAYマッチを制し初参戦でIWGPヘビー級王者となった。
 
その後は中邑、曙、ジャイアント・バーナードを相手に防衛成功。圧倒的な強さを見せたものの、大物ゆえビッグマッチしか参戦しない“特別扱い”がファンの支持にはつながらなかった。
 
レスリング出身の本格派・レスナーに対し、棚橋は真逆の存在に思われていた。格闘技の下地を強調するわけではなく、スタイルもオーソドックス。だが、誰にも負けぬほどの団体愛があった。90年代終わりから2000年代前半は総合格闘技イベントのPRIDEや、立ち技のK-1の台頭によりプロレスというジャンルそのものが瓦解しかけた。
 
何人ものプロレスラーが総合のリングに上がっては負けを繰り返し「プロレスこそ最強」の概念は昭和の遺物のように思われた。もっとも痛手を負ったのは、業界最大手の新日本。オーナーであるアントニオ猪木の命によりPRIDEやK-1のリングに引っ張り出されては次々と倒されていく。
 
そうした時流の中で、プロレスらしいプロレスの価値を訴え続けたのが棚橋。後輩の中邑真輔は総合も並行し飛び級でIWGPに到達したが、それでも新日本の客足は黄金時代に戻らなかった。
 
そこに関しては棚橋も、そして中邑も苦しんだ。それぞれのやり方で新日本を復活させるべく、ガラガラの体育館で闘い続けた。
 
そうした中、棚橋にようやく巡ってきたチャンス。ところが決戦2日前の夜にレスナーの来日不能がFAXでリリースされる。サイモン・ケリー猪木社長によると「契約上のトラブルによりビザの取得が困難になった」が理由だった。
 
自身が挑戦し、タイトルマッチを盛り上げベルトを奪取することで新日本復活の狼煙をあげる熱意がパンパンになっていた棚橋は、この日の試合前に報を聞かされショックのあまりイスへへたりこんだという。そして怒りがこみあげてきた。
 
レスナーにとって、IWGPのベルトとはその程度のものなのか(16日に王座はく奪)。そしてまたファンを裏切ってしまうことになるのか――。
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